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象牙色の立体

映画などについて書きます。

君の名は。

君の名は。」を観た。仕事のアイデアに行き詰まったからだ。私はアイデアを練るとき、散歩をすれば思いつくことが多い。そこで、1時間30分かけて徒歩で映画館に行き、むしゃくしゃしていたので「君の名は。」を観たという具合である(当然1時間30分かけて帰った)。

 

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私はそれほど新海誠監督作品に明るくない。彼の作品で観ている映画は「秒速5センチメートル」くらいで、それも友人が「めちゃめちゃ良いから観て!」とさんざん言われたのでいやいや観たというもの。

 

この秒速5センチメートル」は短編がいくつか繋がった作品で、その頃からTVアニメ時代の監督というか、PV時代の監督という印象で、編集や演出にうっとおしいノリがあるなと思ってあまり好きではなかった (実写映画監督でいえば中島哲也みたいなイメージ)。それでも、その中では種子島を舞台にしたコスモナウトがロケットが出てくるし、面白かった。その後、勧められた友人に観たことを報告し、映画の内容について話していると、実はその友人は秒速5センチメートルyoutubeでしか観ていないというオチで、しっかりレンタルしてみた私は「ふざけんな!」と思った思い出がある。

 

そんな中で、アイデアに行き詰まり、むしゃくしゃしてけなしてやろうという思いで映画館に観に行ったわけで、宇多丸さん的に言えば映画の当たり屋稼業である。結果、映画を見終わり、非常に腹が立った。なぜなら、かなり面白かったからである。

 

なんだよ、面白い映画を作るなよ!とはあまりにも失礼だが、逆にこれだけ貶してやる気持ちで行っても、映画が面白ければ、偏見に関係なく楽しめる価値観を持っているという事実を改めて再確認できたことは、謎の誇らしさがあった。

 

くだらない前置きはこの程度にして、君の名は。のいいところはたくさんある。まずアニメーションが洗練されていて本当に気持ち良い。そもそもアニメの骨頂というか、アニメを観て注目していきたい部分はそのままの通り、絵がどう動くかということだと思う。

 

※ ちなみに、アニメ映画とTVアニメのアニメーションの違いは、髪の毛の動きなどキャラクターの動作にも出ている。風によって自由にたなびく髪の毛というのは、映画の予算だからできることなのかもしれない。髪は金なり、とはよく言ったものだ。

 

君の名は。は、髪の動きや、表情を変えるときの微妙な仕草など、非常に些細な部分の描写にこだわりが出ており、それが無意識のうちにキャラクターへの親近感を生み出している。秒速5センチメートル」と比較しても格段に主人公の女の子がかわいいと感じるのはこれだ。特に惹き込まれるオープニングシーンは、かなりスピーディな編集が特徴的だが、おそらく微妙なコマの落としなどのテクニックを上手く使っている(ソースはとっていない)。どういうことかというと、非常にキャラクターがぬるぬる動く場面もあれば、そうでなくダイナミックに動くところもあって、見ていて心地いい。これで生まれる、映像がぐいんぐいんと動く感じがアニメーションとしてすごく新鮮に感じた。

 

こうした丁寧な描写の結果、描かれている人間が「ちゃんといるな」と思わせる妙な実在感があり、これだけリアリティのある背景の中でもデフォルメされた主人公たちが不自然ではない。これのおかげで、特別なシーンのみで描かれる三葉の笑顔が非常に感動的になっていた(あまりにも眩しすぎる)。この笑顔を劇中でちょうど2回しか使わないあたり、監督のさすがな部分である。その結果として、映画館を出た後、もう一回彼らが動いているのが見たいな、と思わせられる威力が生まれている。

 

確かにストーリーに目新しさはないし、ツッコミどころも多い映画ではあるが(後述)、こういった実在感が終始映画に楽しさを与えてくれており、これが映画の欠点を十分に補完していた。この映画がみんなに人気なのもよくわかる。

 


君の名は。予告編

 

 

(以降ネタバレあり)

 

 

ちなみに、映画を観た人は三葉の髪の毛の結びに気付いただろうか。

 

三葉は毎朝、髪を編むシーンがある。あれは組み紐の髪飾りを使っているが、髪の毛そのものについても組み紐のように結んでいる。それがどうした、と思うかもしれないが、組み紐のような方法で髪を束ねる描写が執拗に強調されていることから、これは監督が伝えたいことなのだろう。

 

ではこれはどういうことか。劇中で言及がある通り、組み紐という存在は、時間や身体の交差を表している。中盤で髪の毛を切って三葉が髪を結ばなくなるということは、瀧くんとの交差がなくなったことを示しているのだ。その後、髪を結んでいた組み紐は瀧くんに会って渡したことが判明、この出来事がきっかけで三葉がすぐに髪を切ってしまったことで、髪も結べなくなり、それによって身体の交差が消失したことが分かる。3年後、三葉が隕石の落ちた場所で再び髪飾りの組み紐を瀧くんから受け取ったとき、髪を編まずに普通につけるのは、彼らが身体の交差なしに本当に出会ったから、ということである。

 

また、この隕石の落ちた場所は、奇跡が起こるポイントとして物語の重要な役割を果たしている。これを見て、私は二つの作品を思い出した。それは、タルコフスキー監督のストーカーと、村上春樹海辺のカフカだ。タルコフスキーのストーカーでは、隕石が落ちたとされる場所が出てきて、そこが”ゾーン”と呼ばれる特殊な空間になっており、入った人間は帰ってくることがない。しかし、そこの最深部には奇跡が起こる場所がある!という話だ(これはDARKER THAN BLACKというアニメの元ネタでもあり、これについてもいずれ書きたい)。

 

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草原に霧という雰囲気も合致する

 

 

 

一方で村上春樹海辺のカフカは、中盤、少年が森を進んでいった奥地で、川のある小さな町にたどり着く。この小さな町は実在感がなく、閉じられている死後の空間のようである。これは、森を抜けて隕石の落ちた不思議な空間にたどり着くシーンと雰囲気も含めて一致する。実際に超自然的な現象が理由なく起こる描写などは、村上作品に強い影響を受けているのだと思う。村上春樹の別の作品である世界の終わりとハードボイルドワンダーランドでは、主人公が夢の世界で自分とは違う世界の人間として生きる、という話で、これはまさにそのものである。私自身はこのような作品群に共通する超自然的な部分を君の名は。でも感じられて、そこが気に入ったので、面白いと感じた人はぜひこのような作品もおすすめしたいところ。

 

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

 

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

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ほかにも、過去に戻って彼女を救うが、大人になりお互いを忘れて結局出会えないというストーリーのバタフライ・エフェクトや、女子と男子が入れ替わるラブストーリーである転校生との関連については言うまでもない。これらはよく論じられることであり、特別な話でもないので言及はしない。

 

最後に蛇足だが、脚本のツッコミどころについても書いておきたい。まずiPhoneの"日記"機能を使っているにもかかわらず、年代がずれていることに気付かないほどおっちょこちょいな三葉はどうか。瀧くんも、カレンダーとか見ないのかね。まあしかし、これは殺人的におっちょこちょいなカップルだな、とごまかすことにしたい。

 

ごまかせないのは、三葉と父親の関係である。深海監督は明確な意思を持って、三葉と父親の関係に焦点を当てており、二人の間にぎくしゃくした関係と強い葛藤を作り出している。当然その後、瀧くんと出会うことで、自分を見つめなおして父親との関係を回復するという展開にしたかったのだろうが、実際はそこが全くエモーショナルではない。最後に父親に避難の直談判に行ったときも、三葉の真剣な表情をみて「おお...」となるだけで、あとはその結果を記事や新聞で示すだけ。最後まで父親は頭の固くてウザいやつというイメージしか残らず、結果的に父親との関係を回復するというカタルシスを生ませること失敗している。葛藤を解消した過程が全く謎なため、これであれば父親に辟易しているというストーリーそのものが必要ない。

 

つまり、隕石落下と二人の恋愛を描くことには成功しているが、父を含めたそれ以外の人間やそれにまつわる展開があまりにもおざなりで実在感がなく、二人だけでよろしくやっているとしか思えない。

 

また、クレーターで3年ぶりに再開した後、瀧くんに「君の名前が思い出せない」と言わせつづけるシーンもうざったい。これはさすがにうるさい。すべてが解決した後、最後に出会ったときに君の名は?って聴くためのフリとして何度も何度も言わせているとしか思えない。さらにそのあと、三葉にも「君の名前が思い出せない」と言わせだしたからさすがに笑った。そもそも記憶もあいまいなんだから、ふっと手を見て「名前何だっけ?思い出せない...」くらいで良いんですけど。丁寧にフリすぎてボケにくいわ、という感じである。

 

隕石墜落後の就活のシーンでも、2人が出会うまでの時間が長すぎて冷める。隕石衝突までのシーンがクライマックスなので、すれ違うシーンを2回も描く必要もない。できれば面接を1,2回やって、すぐ会ってほしい。

 

また、こういった非現実な記憶ものは、現実と虚構を行き来しているうちに自分が精神病なのか、それともこれが本当に起こっていることなのか本人も観客もわからなくなってくるところが面白いはずだ。君の名は。では、瀧くんが新幹線で飛騨に行く場面がそれにあたるはずなのだが、ここでも失敗している。例えば、三葉とのつながりを確認するために携帯の日記を見たとき、日記が"消えていく"のではなく、"そもそも存在していない"とならなければ意味がない。自分の口ではこれは妄想か?と言っているが、その前にこういった描写があるので、観客は「いや、妄想ではないだろ」で終わりである。もっと観客にも、実際は瀧くんの精神がおかしいだけなんじゃないか...?と思わせなければ、その後の三葉への乗り移りが成功したときも全く感動がない

 

最後の場面、二人が再会してからも一言ある。「君の名は。」というタイトルが出てるんだから、二人に「君の名前は?」とセリフで言わせないでほしい。そこは、二人が出会って少し会話をして、見つめあい、お互いが息を吸ったところで、主題歌が鳴るなり、暗転するなりして、そこで「君の名は。」というタイトルだけ出せばもっとうおお!となった。

 

などなどおや?と思ったところもたくさんあるが、それは、このキャラクター二人があまりにも魅力的だからだ。彼らが生きている世界なだけに、もったいないと感じてしまい、どうしても言いたいことが多くなってしまった。さて、感想なんて書いている場合ではない。彼らに会いにいくために、もう一回1時間30分歩くか。