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象牙色の立体

映画などについて書きます。

魔術的リアリズムの映像化に成功した希有な傑作「リアリティのダンス」

アレハンドロ・ホドロフスキー23年ぶりの新作「リアリティのダンス」を観に行きました。台風が治まったタイミングで、閉館寸前のサロンシネマで鑑賞。

 

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アレハンドロ・ホドロフスキーは今なお世界で最も有名なカルト映画の監督です。

そして、他に類をみないくらい変態です。

 

例えば、彼の作品の中でも特に彼の”彼らしさ”が爆発している「ホーリー・マウンテン」は、錬金術によってうんこを煮詰めて黄金にする過程を「実際に」映し出します(汚い!!)。デシケーターにうんこをするシーンから。本当に変態であることがこれだけで如実にわかるでしょう。

 

チリ出身である彼の芸術性は、魔術的リアリズムというものと密接に関係しています。魔術的リアリズムとは、ラテンアメリカ特有の風土から来る魔術的な伝承や比喩表現が実際に現実として表出してくる小説のことを言います。

 

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 二人は海に飛び込んだ。

 

水没した村の前を通ると、音楽堂のまわりを木馬に乗った男女がぐるぐる回っていた。...(中略)...異変で沈んだ村々の海をゆっくりと通り過ぎると、死者たちの海が始まった。無数の死体が漂っていた。トビーアスは今まで、こんな大勢の人を見たことがないと思った。

 「これは大昔に亡くなった人たちだ。これほど穏やかな姿になるには、何世紀もかかるんだよ。」とハーバード氏は説明した。

 

 

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エレンディラ/G.マルケス 著 (ちくま文庫)の短編のひとつ、「失われた時の海」の一節です。海の中で死んだ人々は何世紀もそこに存在し続けるという伝承が現実となって表出しています。魔術的リアリズムの世界では、死者は滅びずに実際に喋りだし、生者は生きたまま死んでいます。娘はシーツに包まれたまま空へ消え、男は口から子兎を何匹も吐き出します。

 

 

「ペドロ・パラモ」「百年の孤独」などの傑作を排出したラテンアメリカ文学が世界を席巻した時代から既に50年が経ちました。いまやこれらの文学は落ち目ですが、ホドロフスキーは未だその精神を受け継いでいる数少ない現役の作家でしょう。

 

 

初期作のエル・トポでは自らの影が映るほどの血の海を歩き、殺気だけで大量の兎を殺します。ホーリーマウンテンではうんこを錬金術によって金に変えます。ホドロフスキーの作品は、非常に芸術的ながら、あまりに俗っぽく醜悪とさえ言えます。

 

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エル・トポの1シーン

 

そんなホドロフスキーの23年ぶりの新作です!

ひっそりと公開されていますが。

 

 

「リアリティのダンス」

 

それにしてもサロンシネマ、結構お客さんが多くて吃驚しました。

おじいさんとおばあさんがほとんどでしたが、ホドロフスキー人気は健在ですね。

 

そしてこの映画観てみると、

やはりまぎれもなくホドロフスキーの映画でした。

 

しかし、もう85歳を迎えたホドロフスキー

円熟に達したのか、今までの映画と異なり、非常に率直なテーマをストレートに伝える作品になっていました。その表現にもトゲが取れ、落ち着いた分だけ作品の幻想性が顕著に現れていました。それでも、まぎれもなくホドロフスキーだと分かる奇怪でギョッっとするようなシーンがしばしば出てきて笑わされるのです。

 

例えば、冒頭は金貨がじゃらじゃら落ちるCGとともに画面いっぱいのホドロフスキーが喋りだすところから始まるので、いかがわしい成金野郎のセミナー用映像が始まったみたいにみえます。妻が呪文を唱えながら夫に小便を引っ掛ける魔術シーンとかもあります( モロ見えです )。ゲテモノ目当てでも、エンターテイメントとして観ても問題なく楽しめるところがホドロフスキーの映画の凄いところなので興味がわいた方は是非。

 

 

では、詳細な内容について。

 

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この映画は、ホドロフスキーの自伝です。

子供時代に住んでいた軍事政権下にあったチリの田舎町が舞台です。

 

 


映画『リアリティのダンス』予告編 - YouTube

 

 

抑圧的な父親と、歌うように話す母親の元で育てられたホドロフスキー

ユダヤ人ということで虐められ海に石を投げ込むと、海の怒りを買って魚が大量に打ち上げられる。金髪の毛髪は霧のように消え去って黒い天然パーマになり、言霊を宿した石は風船にのって父親の元へ飛んでいく。空想のような子供時代を過ごすホドロフスキーに、老齢な現在のホドロフスキーが現れて助言を与えます。時間の概念もありません。

 

この世界はホドロフスキー※1マコンド。記憶の世界なのです。

だから彼自身が好きなように書き換えることが出来るのです。

 

ホドロフスキーの実際の父親は、抑圧的で独裁的なまま死んでいき、母はオペラ歌手を目指していましたが諦めて辛い人生を送っていたそうです。しかし映画の中では、父親は独裁的だった自分に絶望し、そして妻の手によって救済されます。現実とは異なっていますが、これが彼にとっての家族の救済なのです。

 

人間の人生はその記憶のみで成り立っているといって過言ではありません。記憶の消失は、過去の消失であり、人生の消失です。記憶がすべてならば、その記憶を書き換えることは、人生を書き換えることに繋がるのです。

 

ホドロフスキーは言います。

 

「これは人々の魂を癒す映画であり、映画の中で家族を再生することで、私の魂をいやす映画でもあった。」

 

物語の意義とは何でしょうか。

空想の世界で記憶を紡ぎ、自分を救済することでしょうか。記憶が人間のすべてなら、物語による記憶は現実でも大きな力になります。自分の記憶でもそうです。つらいトラウマが過去にあっても、それはつらい記憶のままなのでしょうか。今の自分は、過去の自分をいくらでも救済できます。いま過去の辛い記憶を思い出してみると、それはある意味で良い経験だったと思うことがよくあるでしょう。

 

たとえ現在が辛くても、未来の自分は今の自分をどう思うのでしょうか。良い経験だった思うのでしょうか。理不尽な世界で生き続けるためには、過去や未来の自分と話し合い、それぞれの視点で今の自分を見つめることが肝要なのだ、と師であるホドロフスキーは我々に伝えています。

 

 

現在も過去も未来も存在せず、すべては記憶という夢の中で我々は生きているのです。ただ、それは自分の記憶か、他人の記憶か。

 

 

この世は夢であり、生も死も等価である。

 

 

ラテンアメリカ文学の大きな意志は、ホドロフスキーの魂にも宿っているのです。

 

※1:百年の孤独の舞台となる蜃気楼の村