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象牙色の立体

映画などについて書きます。

かぐや姫の物語

「かぐや姫の物語」

少し乗り遅れたけど観ました。

 

...ラスト30分間ギャン泣きでした。

 

 

 

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かぐや姫の物語 

 

 

もう公開してから1カ月以上経っているので、初っ端からネタバレ全開でいきます。

まだ観てなくて、これから観る予定がある人はこれ以上みないで下さい。

 

...てか竹取物語のストーリーぐらいみんな知ってる?

 

 

 

---------------------------------以下ネタバレ--------------------------------

 

 

 

 

 

 

まず、日本最古の物語といわれる「竹取物語」を、現代になぜ映画化する意味があるのかということについてです。最も大きな部分は、かぐや姫がとても現代的な考え方を持っているというところでしょう。この時代に生まれてきた女子は、到底このようなおてんばな考え方は持っていなかったでしょうし、生まれてからそのような教育もされなかったでしょう。

 

しかし、かぐや姫の成長スピードが異常に早く、しかも、その幼少期は田舎で育ったということもあり、この当時の風習のことを学ぶこともありませんでした。そのため、現代の人々が感情移入できる性格へと育ったというのが、高畑勲的解釈です。これによって、映画を観る人々とかぐや姫の間の、1000年もの考え方の隔たりを無くすという自然な技法は素晴らしいです。

 

 

 

 

さて、これでようやく我々が姫さまに感情移入できるようになりました。 高畑勲監督は、我々の分身であるかぐや姫を通じて、普遍的な「生きること」の醜さや素晴らしさを伝えたかったのだと思います。そしてその媒体に、竹取物語を選んだというだけのこと。

 

 

 

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高畑勲監督が伝えたかったことについて、より具体的に。

 

 

その前にまずは、かぐや姫の物語の二つの事実について。
映画内で明示はされませんが、どちらも「たぶん」事実だと思います。

 

 

 

 

「姫が犯した罪と罰

 

 

これが、この映画のキャッチコピーになっていますが、

映画内ではその罪と罰が殆ど語られません。

 

 

 

 事実ひとつ目。

 

 

姫が犯した罪は「地球に生まれることを望んだこと」。罰は、「地球に送られ、生きること」です。

 

 

これはかぐや姫自身が映画の中で語ることです。終盤で、かぐや姫は「月に住んでいたとき、私は、地球で住んだことのある女性が童謡を歌って涙を流すのをみて、地球に住みたいと願うようになった。そして、地球に住みたいと願ったことで、地球に送られた。」と語っているのですから、「地球に生まれることを願ったこと」が罪で、その後の地球での過酷な人生をみれば「地球に送られて、生きること」そのものが罰です。

 

 

 

二つめは、月の世界は死後の世界の象徴であることです。

 

月の住人は感情なく、全ての人々が平穏に暮らしているというのも死後の世界を連想させますし、最後に迎えにくる月の住人の姿も、菩薩や天人のようです。また、これは他の方が仰っていたことですが、ラストのお迎えのシーンは、「阿弥陀二十五菩薩来迎図」という絵画と同じ構図だそうです。

 

 

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確かに同じだ!

 

ちなみに「来迎」とは、wikipediaによると、「仏教中の浄土教において、紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎える為に、観音菩薩勢至菩薩を脇侍に従え、諸菩薩や天人を引き連れてやってくること」だそうなので、これからも、高畑勲監督は月を死後の世界だと捉えていたことが分かります。

 

そう考えると、かぐや姫が天の羽衣を着せられるラストシーンは、とても残酷です。かぐや姫がおばあさんおじいさんと話している途中なのにもかかわらず、天人によって天の羽衣を唐突に着せられることで、地球での記憶が全て消えてしまいます。

 

 

 

 

 

死です。

 

 

 

 

 

 

お迎えは死の象徴です。だれも待ってはくれませんし、まして、地球人がお迎えを止めることなどは絶対に出来ません。つまり、この「かぐや姫の物語」はかぐや姫が生まれてから死ぬまでの物語ということです。

 

 

ここで、前述した「姫が犯した罪と罰」というキャッチコピーをもう一度言い換えると、かぐや姫がこの世に生まれてきたことが「罪」で、生きることそのものが「罰」なのです。

 

 

 

...では、映画内の二つの事実を説明したところで、僕の感想を。

 

 

 

「罪」とは、この世で、楽しいこと、辛いことなど、感情を持って生きていくということだと思います。ラストシーンで「それは汚い行為だ」と天人は言います。天人は死後の世界の住人で、感情はありません。非常に清らかで、波風ひとつ立てることがありません。生きていることは汚くて激しい行為です。辛く苦しい思いもします。それこそが生きているという「罪」への「罰」なのです。

 

 

 

かぐや姫の人生の大半は辛く、哀しいものでした。「あのとき、こうしていたら...」といつもかぐや姫は思います。しかし、時間は戻せません。そしてあるとき、かぐや姫は諦めます。こんな辛い思いをするなら、こんな辛い「罰」を受け続けるならば、死んだほうが(月に帰ったほうが)、マシだと思います。

 

しかし、死を決断し、穏やかな世界が刻一刻と近づいてくる段階になったとき、ようやく幼なじみの捨丸によって、生きることの意味、「罰」すなわち「感情」の意味に気付くのです。

 

 

 

このシーンは圧巻です。

映画史に残るシーンとさえ思います。

 

 

 

今まで生きることを諦めていたかぐや姫が、捨丸の一言によって、生きることの意味を知り、世界を疾走します。中盤で絶望を知ったときの疾走との対比で、この疾走は凄まじいものです。やはり「映画」と「疾走」は相性がいい!!

 

死が決まったとき、それを諦めるのでなく、決まっている死からもがき続けるという行為そのもの(これが生きるという行為そのものじゃないか!!)が、とてつもない輝きを放ち始めます。たとえ、羽衣によって死を与えられたとしても、その一瞬の輝きは、事実として残るでしょう。生きることは、それが一瞬で元に戻らないからこそ、強く輝くのです。

 

 

たとえ、ほとんどが辛く、哀しい人生だったとしても、

そういう輝く一瞬のために、地球で生きる意味があるのかもしれません。

 

 

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見終わって、

「せ...切ねぇーー、こんな切ないかぐや姫あるかよ!!」

と、映画館で思ってしまいました。

 

 

私は元来こういうテーマが大好物で、こんな映画を見せられると、

ギャン泣き以外あり得ませんですよね。

 

 

文章にしても98%伝わらないので、是非映画館でみて欲しいです。正直観るまでは舐めていましたが、ジブリ作品の中でも、一番か二番目くらいに大好きな作品になりました。